5月25日発売の週刊文春で、市川猿之助さん一家心中事件の詳細な経緯が報道されています。事件から数日経ちますが、市川猿之助さんの現在の状況などは分かっていません。
文春で報道されている市川猿之助さん一家心中事件の詳細についてまとめます。
市川猿之助一家心中事件松竹は告発者探しに必死
5月18日に発売の週刊誌女性セブンにて、市川猿之助さのセクハラ・パワハラ疑惑が報道されています。
5月15日市川猿之助さんが直撃取材を受けてすぐに、松竹が犯人捜しを開始しています。取材に対して市川猿之助さんは「答える義務はない」と一蹴しています。
松竹が告発をした犯人を探した結果、スキャンダルを告発したと考える人物を2人に絞り込んでいます。
文春によるとその人物とは市川猿之助さんと共演経験のある役者と、舞台を手伝っていた裏方であると突き止めています。
共演経験のある役者は女性セブンの取材で、松竹に事情を聴かれ証拠となる資料を提出したと話しています。
市川猿之助幼少期から自分の嗜好を自覚?
市川猿之助さんは暁星小中高を卒業しています。暁星学園と言えば香川照之さんも同じ学校に通っていました。
クラスでは隅っこにいる目立たない印象の子でした。小学校の頃は女言葉だった記憶があります。会話の端々で『そうよねぇ』と。うちの学校は中3の頃から女子校と合コンをし始めるのですが、彼はそういう集まりには入らなかった。でも、たまにふざけて、彼が大河ドラマや『半沢直樹』で演じたようなオーバーな喋り方をしたり、同級生の前で歌舞伎の踊りを披露したりしていました
週刊文春 電子版
クラスでは目立たない存在だったという市川猿之助さん。少学生のころは女言葉でしゃべり、合コンに行くこともなかったということは、その頃から自分の嗜好について自覚していた可能性があります。
市川猿之助さんは自室の壁が本で埋まるほどの読書家で、愛読書は哲学者・梅原猛の著作を愛読していました。
市川猿之助さんの自室には、梅原猛の書が飾られているといいます。梅原猛氏はスーパー歌舞伎、スーパー能を創作し文化勲章を受章されています。
市川猿之助さんは慶応義塾大学の文学部国文学を専攻しています。大学生の頃は市川亀次郎で活動しており、歌舞伎舞台を減らして学業に専念しています。
「猿之助さんは秀才で、雑誌の対談でもいわゆる一流知識人と対等に話をしていた。慶応で英語を教えていた教師は、猿之助さんについて『家柄だから将来役者になるんだけど、そうじゃなかったら大学院で研究するようなタイプだ』と話していました」
演劇評論家の上村以和於氏
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歌舞伎役者を辞めて学者になることも考えていたと話していて、大学4年生のころには大学院進学を勧められましたが、進学はせず卒業後から歌舞伎に専念しています。
慶応義塾大学を卒業した後も、もっと勉強しておけばよかったと話していて勉強熱心であったことが伺えます。
成績は優秀でほとんどの科目でA判定をとっていて、大学の学費も自分で払ったというので驚きです。
市川猿之助襲名乗っ取り事件で香川照之とギクシャク
澤瀉屋は九代目市川團十郎から破門された後、20年間芸を磨き破門がとかれたときに初代猿之助を名乗ったのが始まりです。
澤瀉屋は梨園の中でも歴史と地位が浅く、常に実績を求められていたといいます。
澤瀉屋が注目を浴び始めたのが、現市川猿翁さんが古典歌舞伎の洗い直しやスーパー歌舞伎を始めてからでした。
市川猿之助さんは亀次郎の時代から才能が突出していたといい、市川猿翁さんからその精神を受け継ぎスーパー歌舞伎Ⅱを作りました。
4代目坂田藤十郎さんのところに『心中天網島』を教わりにきていたのですが、『亀ちゃんは凄い。全部調べてきて白紙で習う』と言っていました。白紙というのは、謙虚に『教えてください』という姿勢。だから、飲み込みが早かった」
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市川猿之助さんは父親の市川段四郎さんではなく、叔父の市川猿翁さんに憧れていました。石川猿翁さんに呼び出され、市川猿翁さんと性格が似ているから自主公演の経験を積むように言われます。
自分ではなく叔父に憧れるのは父親として寂しい気がします。市川猿之助さんには歌舞伎役者として新しいことをしていた市川猿翁さんがまぶしく見えていたのでしょう。
市川猿之助さんは2007年にテレビドラマに初出演します。NHK大河ドラマ風林火山で活躍し、歌舞伎役者として以外でも活躍の場を広げていきます。
市川猿之助さんがテレビに出始めたころは、香川照之さんがテレビ局の色々な部署に2人で挨拶周りをしていたことも知られています。
2012年6月新橋演舞場で、4代目猿之助の襲名と共に香川照之の9代目市川中車・息子の市川團子の襲名が行われました。この襲名披露は松竹の社内では襲名乗っ取り事件と言われ大事件になっていました。

出展 週刊文春電子版

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出典 週間文春電子版
この襲名披露の際、市川猿之助さんが口上の後に、本来なら脇役のはずの香川照之が自分の襲名がメインイベントであるかのように立ち振る舞ってしまったのです。
メディアが香川照之の襲名ばかりを取り上げられ、市川猿之助さん存在が霞んでしまいます。
この事件がきっかけで市川猿之助さんは気分を悪くし、一時期香川照之さんとの関係が悪化していました。自分の襲名をないがしろになれた市川猿之助さんの怒りは想像できません。
香川照之さんは自分が9代目市川中車、息子が市川團子を襲名することを望んでいたので、計画がうまくいき天狗になっていたのかもしれません。その数年後にスキャンダルで追い込まれるとは夢にも思っていなかったでしょう。
市川猿之助ラスベガスで不眠不休ギャンブル家庭崩壊
市川猿之助さんは次第に役者の使い方も変えていくようになります。先代が育てた役者を脇役に使い、市川猿之助さんが外から新たに来た役者に重要な役を任せるように。
そして、澤瀉屋を支えてきた市川月乃助・市川春猿が澤瀉屋一門を離れ、劇団新派へ所属。
3代目市川猿之助の部屋子で、信頼の大きかった市川右近が市川右團次を襲名したあと、屋号を高嶋屋と変えて澤瀉屋と距離を置き始めました。
これにより市川猿之助さんが歌舞伎の世界で孤立していくようになりました。
公演の成功祈願の際に髪を青く染め上下ピンク色のデニムで参加するなど、市川猿之助さんの言動が周囲を驚かせていきますが、市川猿之助さんは歌舞伎のチケットが売れる役者であったため松竹は何も言えなかったといいます。
1日20時間以上もラスベガスのカジノに入り浸って、車1台分のお金を溶かしたり、地縛霊が成仏するといわれたロシア製のランプを30万円で衝動買いしたり、スピリチュアルな世界へのめり込むようになります。
20時間以上もカジノに入り浸りお金を使うなんて異常です。カジノ以外のストレス発散方法はなかったのでしょうか。
いかにも怪しいランプも購入していますし、スピリチュアルな世界にしか心のよりどころがなかったのかもしれません。可哀想ですね。
周囲から孤立していく市川猿之助さんに手を差し延べてくれる人はいなかったのでしょうか。
そして市川猿之助さんの父親、市川段四郎さんの病状は深刻でした。肝臓がんステージ4で要介護状態でした。コロナ禍であり市川段四郎さんのコロナ感染を恐れた喜熨斗延子さんは、介護にかかりきりで表に出ないようになりました。
歌舞伎役者にコロナ感染者が出るたびに、市川猿之助さんが代役を務めていたといいます。コロナ感染に注意を払いながらの代役・公演によるストレスがすさまじいものだったでしょう。プレッシャーとかなりのものだったと思われます。
市川猿之助一家心中事件最後の晩餐は蕎麦ドラマのような筋書き

出典 週間文春電子版
5月17日、市川猿之助さん、市川段四郎さん、喜熨斗延子さんが集まり、リビングで最後の晩餐の蕎麦を食べました。
「週刊誌にあることないこと書かれ、もう駄目だ。すべてが虚しくなった。全員で死のう。生きる意味がない。寝ている間に死ぬのが一番楽だろう」
週刊文春電子版
家族会議で自首を決意した3人は、市川猿之助さんが自室から、病院で処方してもらい大量に余っていた睡眠薬を持ちだしました。
パッケージから錠剤を取り出すと時間は深夜0時を過ぎていました。市川段四郎さん、喜熨斗延子さんは睡眠薬を10錠ほど口にすると、すぐに意識を失いました。
市川猿之助さんは部屋にあったビニール袋を手に取り、その顔にかぶせていきました。
「両親が動かなくなった後、猿之助さんはビニール袋を取り外し、“死に顔”を見たといいます。そして、薬のパッケージとビニール袋を夜中のうちに家の近くのゴミ置き場に捨てたのです」(喜熨斗家の関係者)
週刊文春電子版
市川猿之助さんは朝7時に松竹に体調不良で公演を休むと連絡をしています。その後愛するAさんに遺書を残し睡眠薬を飲みクローゼットに籠りました。
まるでドラマを見ているような展開。蕎麦が最後の晩餐なんて歌舞伎役者らしいというか。
両親が息絶える瞬間を目の当たりにしたときの感情はどんなものだったのか。顔に袋をかぶせたのは死に行く両親の顔を見たくなかったからなのでしょうか?
市川猿之助最愛のマネージャーに関係を否定される
市川猿之助さんは、自室の正面に立て掛けられたスケッチ用キャンバスに猿之助の遺書のようなものを残していました。
愛するAだいすき。次の世で会おうね たかひこ
週刊文春電子版
市川猿之助さんが死んだら、このAさんを養子にし遺産を相続させたいという内容の遺書もありました。そこまでさせるほど市川猿之助さんはAさんを愛していたのでしょう。
このAさんのために、市川猿之助さんはホテルを貸し切り、芸能人を多数招待した誕生日パーティを開いています。Aさんと市川猿之助さんの出会いは2019年以降と言われています。
Aは猿之助と愉快な仲間たちという舞台の常連役者になり、自分の名前にちなんだ演目も作られたりと、主役級の役が与えらるなど破格の扱いを受けていました。それもすべて市川猿之助さんと深い関係にあったからだと言われています。
「A氏は運転手兼マネージャーとして四六時中、一緒にいました。猿之助さんが地方で仕事などがある際は必ずついていき、同じホテルに宿泊。猿之助主催のパーティがお開きになると、他の役者さんや裏方さんはリビングで雑魚寝をするんですが、A氏だけ猿之助さんの寝室に招かれ、一夜を過ごしていました」
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Aは小柳ルミ子と交際した後は、10歳上の女優と交際したり、AV女優を追いかけたりしていたそう。
Aは無名だったため小柳ルミ子との交際報道は売名だと言われていました。仕事がない時には明治座や新橋演舞場の大道具をやっていたそうですが、いつの間にか市川猿之助さんがプロデュースする舞台に出演していました。
5月18日に市川猿之助さん発見した際には人目もはばからず号泣していたと言われています。Aの両親も連絡がつかないと話しています。
Aは警視庁の事情聴取に対して、市川猿之助さんとは付き合っていなかったし、体の関係もなかったと話しています。市川猿之助さんはAに対し遺書のようなものを残しています。
このAの話が本当なら市川猿之助さんは、Aに対して一方通行な思いを抱いていたことになります。
遺産を相続させようとしていた相手に否定されてしまった市川猿之助さんが不憫でなりません。信じていた相手に裏切られたようなものですから、もし私なら生きていけないでしょう。
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